前略 人に傷つけられた人へ
人に名誉を傷つけられ、苦しんでいるとしたら、早く信じられる人に相談してほしい。
あなたに向けられて放たれた火を、自分一人で消すのは困難極まりないから。
一人じゃないことは、自分を強くしてくれるはず。
絶対に、大丈夫。
映画「リチャード・ジュエル」はそういうことを感じさせ、ラスト涙が流れた作品だ。
映画「リチャード・ジュエル」あらすじ
「アメリカン・スナイパー」の巨匠クリント・イーストウッドが、1996年のアトランタ爆破テロ事件の真実を描いたサスペンスドラマ。96年、五輪開催中のアトランタで、警備員のリチャード・ジュエルが、公園で不審なバッグを発見する。その中身は、無数の釘が仕込まれたパイプ爆弾だった。多くの人々の命を救い一時は英雄視されるジュエルだったが、その裏でFBIはジュエルを第一容疑者として捜査を開始。それを現地の新聞社とテレビ局が実名報道したことで、ジュエルを取り巻く状況は一転。FBIは徹底的な捜査を行い、メディアによる連日の加熱報道で、ジュエルの人格は全国民の前で貶められていく。そんな状況に異を唱えるべく、ジュエルと旧知の弁護士ブライアントが立ち上がる。ジュエルの母ボビも息子の無実を訴え続けるが……。
(引用 https://eiga.com/movie/92146/)
母の訴え涙なしでは見られない
ライブ会場で爆弾を発見し、マニュアルに則った行動で多くの人命を救ったジュエルは、一躍時の人、英雄となった。
母ボビは、息子の行動を誇りに感じる。
しかし、3日過ぎたころ、風向きが変わる。
FBIの捜査とは言えない決めつけと地元新聞記者のリークにより、ジュエルが爆破犯に仕立てられてしまう。
無実な実直な男が、無実の罪を負わされる恐怖と怒りが込み上げる。
ジュエルを救ったのが、かつてジュエルと一人の人間として関わった弁護士のワトソンだった。ワトソンは、ジュエルの目を見て得た直感と爆発事故現場での事実の検証を通じて、ジュエルの無実を確信して、救うことを使命と思い、FBIやマスコミと闘う覚悟を決める計画を立てる。
FBIが行うジュエルの家宅捜査のシーンは、何の罪もない人のプライバシーや自尊心を踏みにじる卑劣極まりないことの連続で、国家組織が容疑者を作りだす過程を執拗に描く。
そして、息子のジュエルのために会見の場に立った、母ボビの訴えは、胸を打った。
最後、「大統領ー」と訴えた言葉は刺さった。
ボビも自分ができることで、息子を救おうとした。
そこからは、ずーっと涙が流れ落ちていた。
発信する人の責任と罪の重さ
クリントイーストウッド監督が、この映画で訴えたかったのは、「一人じゃないことの強さ」だと思う。
FBIやマスコミのでっち上げに屈しなかったジュエルはすごい。
そして、それは弁護士のワトソンや母ボビたちがそばに居てくれたからこそ、折れることなく強くいられたのだろう。
一方で、ニュースを発信した側の責任はどうだろう。
スクリーンで観たわたしは、冷静な目でジュエルの無実を確信できるが、当時TVや新聞を通じて情報を得ていた人たちは、ジュエル=容疑者という視点から報じられているので、ジュエルは有罪としか考えられなかっただろう。
正しい判断を狂わす情報提供により、罪のないジュエルを容疑者にし、ジュエルの家族の生活や精神まで苦しめるのは、絶対にあってはならないことだ。彼らは何もしていない。
母ボビは、息子が犯人だという誤った情報を取り消し、名誉を回復し、プライバシーを守り、平和な日常を返してほしいと涙を流して訴えた。
その先では、自分の評価アップのためにFBIがでっち上げる誤報を特ダネとして報じてしまった女性記者が涙を流している。その涙の意味はー。
まるで自分が世間のヒロインにでもなったかのように高揚した状態で、事実など確認せずに報じてしまった自分の傲慢さと愚かさに、どうしようもない後悔と恐怖を感じていたと思う。
「その事実と向き合い、心から謝罪する」
女性記者はそうしない限り、傷つけたジュエルや家族からの許しは得られない。
過去は消せないが、前に進むためには避けては通れない人間としての行動だろう。
そうすることで、誰よりも人を傷つけてしまった記者だからこそ救える人が出てくると思う。